哲学者でありローマ皇帝の両面をもつマルクス・アウレリウス。
そこには立派に国を治めるようとする一人の弱い人間の姿があった。
やりたいことが絶たれ、戦争処理に人生を費やし、多くの子に先立たれる。
それでも周りには弱音を吐かず、よく生きようとしていた。
そんな彼の生涯を幼少期から世を去るまで解説する。
もくじ
マルクス・アウレリウスとは?
ローマ五賢帝の最後の1人であり、後期ストア派の哲学者。
かれは「哲人皇帝」と称され、プラトンが提唱した「哲学者が国を治める」ことを実践した。
皇帝として、戦争や疫病災害という困難にあいながらも、ローマの平和を維持した。
その治政のもと、理性と徳を中心としたストア派の思想がうかがえる。
かれの著書『自省録』は、ストア哲学の教えを記した重要な書物であり、内省と自己鍛錬を重んじている。
幼少期
マルクス・アウレリウス・アントニヌスは121年4月26日、裕福な貴族の子として生まれた。
父親を8歳で亡くし、祖父の養子となる。
マルクスは子どもの頃からまじめな性格で優れた素質をもっていた。
そのため時のローマ皇帝ハドリアヌスに気に入られ「最も真なる者」と呼ばれた。
病弱な体質だったため学校には通わず、一流の家庭教師のもとで教育を受けた。
さらに、古代ギリシャ人にならい、粗末なマント一枚をまとい、地面に寝るようにしていた。
この古代ギリシャの教訓にもとづく節制ある生活は、病弱な体質を回復させた。
ストア哲学との出会い
当時のローマではストア哲学が流行しており、その思想とマルクスの内向的な思想が合致した。
音楽、舞踏、芸術など幅広い学問にふれるが、最も熱中したのは哲学であった。
特にストア派に傾倒し、プルタルコスの甥であるセクストス、エピクテトスの書物を紹介したルスティクス、第二のキケロと称されたフロントから大きな影響を受けた。
これらの教師は、後にマルクスが皇帝となってもなお、敬意を表して銅像を建てるほどであった。
また、かれは健康を損なうほど哲学に熱中していた。
哲人皇帝として
ハドリアヌスの死後、アントニヌス・ピウスが皇帝に即位した。
そのさい遺言により、マルクスとルキウス・ウェルスの二人が後継者候補としてアントニヌスの養子となる。それを知ったマルクスは喜びしなかった。
母に理由を問われると、皇帝につきものの悪事を数え上げたという。
それにより哲学者として生きたかった、かれの道がその場で途絶えてしまった。
これは一瞬の運命の転機であった。
マルクスは15歳で成人し、ファビアという女性と婚約した。
しかし、アントニヌスはマルクスの婚約を破棄し、自らの娘ファウスティナと結婚するよう求めた。
かれは悩んだ末、これを受け入れた。
マルクスは15歳にして自分で恋愛の相手を選ぶことはできず、政略結婚をすることになった。
その後、17歳で正式に後継者に指名され、「カエサル」の称号を得た。
さまざまな役職を歴任しながら皇帝としての務めを学び、多忙な日々を送った。
そうした中でも、かれは劇場や絵画、スポーツなどに熱中したが、最終的には哲学を選び、熱中した。
だが、趣味を楽しむことをやめても、かれの人格は変わることはなかった。
だれに対しても礼儀正しく接し、使用人に対しても横暴な態度をとらないよう自らを戒めていた。
かれ自身は皇帝の座を喜ばなかったが、それでも自らの責務を果たし続けた。
その姿勢は後に「哲人皇帝」と称される所以となった。
また、父の死後、遺産をめぐる問題が発生したが、マルクスは妹に全財産をゆずることを決断した。
さらに、妹の夫が財産面で不利にならないよう、母の財産も妹にゆずった。
26歳の時、ファウスティナと正式に結婚し、二人の間に14人の子が生まれた。
しかし、その多くが夭逝するという悲劇に見舞われた。
それでもマルクスは家族を支え続け、皇帝としての職務に励みながらも、学問の探求を続けた。
かれはアントニヌスを深く尊敬し、その生き方を学んだ。
その影響は『自省録』にも色濃く表れている。
帝室の一員となった後も、マルクスは周囲の人々に対して変わらぬ敬意を持ち続けた。
アントニヌスが死去すると、マルクス一人が皇帝に推薦された。
しかし、彼は義弟のウェルスを共同皇帝として迎えた。こうしてローマ初の共同統治がはじまった。
マルクスはウェルスに尊敬と友情を示し、自身の娘と結婚させた。
しかし、ウェルスは怠惰な性格で皇帝としての責任感がうすく、戦争や行政の負担はマルクスにのしかかった。
マルクスは寛大な態度でウェルスを扱い、二人の関係は円満であった。
即位直後、ローマ帝国はさまざまな災厄に見舞われた。
川の氾濫、地震、そしてゲルマン人の侵攻が相次いだ。
また、東方ではパルティア戦争が勃発したため、ウェルスが遠征軍を率いて戦地へ赴いた。
かれは5年の遠征の後、勝利を収めてローマに戻ったが、このとき疫病を持ち帰った。
おそらく天然痘でローマ全土に広がり、おおくの市民が命を落とした。
マルクスは平民のために公費で葬儀をおこない、かれらを弔った。
いっぽう、戦地ではマルコマンニ戦争が勃発した。
この戦争はマルクスの死後まで続く長期戦となった。
北境への遠征の途中でウェルスは脳卒中により死去し、マルクスが単独皇帝となった。
かれは国庫が尽きるなか、自身の財宝を競売にかけ、戦費を確保した。
ダニューブ川に陣営を構え、ここで『自省録』の第一巻を書いた。
死とその後
175年、戦争が一旦終結し、マルクスはローマに戻った。
しかし、その直後、部下のカッシウスが「皇帝は死んだ」と偽り、自ら皇帝を名乗った。カッシウスの反乱には一部の者が賛同したが、マルクスが生存していると判明すると、かれは部下によって殺害された。
マルクスは、この反乱を対話によって解決しようとしていたため、カッシウスの死を残念に思い、彼の家族にも寛大な措置を取るよう命じた。
このころ、妻ファウスティナが病死した。
マルクスは一人旅に出て、アテネに赴き、エレウシスの秘儀に入信した。
176年にローマに凱旋し、一時的に平和が訪れたかにみえたが、178年には全ゲルマン民族が再び侵攻を開始した。
マルクスは息子コンモドゥスを伴い、遠征を行った。
179年に大勝利を収めたが、翌年、戦地で疫病にかかり58歳で死去した。
かれは死の直前に息子コンモドゥスを呼び、「戦争を終わらせ、国を裏切らないように」と伝えた。
また、友人たちを集め「なぜ汝らはわたしのために泣くのか。むしろ疫病や共通の死を考えるべきではないか」と語り、さらに「もし今、汝らが私に、いとまごいを許してくれるなら、先に逝くわたしから別れを告げよう」と述べた。
かれはプラトンの「哲学者が統治を行うか、統治者が哲学をするなら、国家は栄える」という言葉を信条とし、数々の試練を乗り越えた。
しかし、皇帝としての20年間は戦争、疫病、災害に見舞われ、平穏な余生を送ることはなかった。
かれの死後、ローマ市民は一世紀にわたり、彼を守護神として各家庭に祀った。
マルクスは14人の子どもをもうけたが、生き残ったのは6人のみであり、その中でも息子コンモドゥスが皇帝となった。
しかし、かれは父とは異なり、残虐で統治者としての素質を欠いていた。
マルクスは、過去の皇帝たちの恐怖政治を恐れ、息子の行動を憂いていたともいわれている。
まとめ:マルクス・アウレリウスから学ぶ教訓
マルクス・アウレリウスはローマ帝国の平和を守ったが、自身の生涯は決して穏やかではなかった。
皇帝としての重責を担ういっぽうで、政略的な結婚、戦争、友人や家族の死といった苦難に見舞われた。
しかしかれにとって最も辛かったのは、哲学者として思索し、読書に没頭する人生が叶わなかったことだろう。
『自省録』には「宮廷生活の不平をこぼさないように」「自分には読書が許されていない」といった記述がある。
内省的な性格のかれにとって、皇帝という役割は大きな苦痛だったことがうかがえる。
それでも悲観せず、死ぬまでストア哲学を貫き続けた。
思い通りにならないことを嘆くのではなく、あたえられた環境の中で最善を尽くすことこそが重要だと考えた。
だからこそ、かれの言葉は今も多くの人々の心に響き続けている。