
古代ギリシャの世界において、最強の軍事国家であったスパルタ。徹底した訓練で鍛え上げられた兵士たちは、向かうところ敵なしの強さだった。しかしそんなスパルタも時代が進むにつれ、衰退し覇権を失うことになる。スパルタはなぜ滅んだのか? その問いの答えは、一つではなく複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。
スパルタを襲った地震、ヘイロータイ(奴隷)の反乱、アテナイとの長きにわたる戦争、そして社会の根幹を揺るがした内部崩壊などスパルタが滅亡へと至った真実に迫る。この記事を読めば、スパルタ衰退の全体像が明確に理解できるだろう。
もくじ
大地震とヘイロータイの反乱

スパルタの社会に大きな亀裂を入れたのは大地震だった。この出来事により奴隷の反乱、戦争への始まりになる。
大地震による損害
前464年頃、スパルタを大地震が襲った。その被害は甚大で後世の伝えによれば、スパルタ市内で倒壊を免れた家はわずか5軒しかなかったという。さらに若者たちが訓練中だった体育学校(ギュムナシオン)が倒壊し、そこにいた者たちが全員下敷きになり死亡した。
【反スパルタ感情の萌芽】侮辱されたアテナイ
この好機を逃さなかったのがヘイロータイ(奴隷)であった。混乱にまぎれて、ヘイロータイは一斉に反乱を起こす。彼らは山に立てこもり、ゲリラ的な抵抗を続けた。宿敵のアテナイに救援を求めるほどであり、この反乱は約10年続いた。
しかし、いざアテナイの重装歩兵部隊が到着すると、スパルタの態度は一変する。彼らはアテナイ軍がもたらすであろう民主政的な思想や自由な気風が、自国の厳格な支配体制に悪影響を及ぼすことを恐れた。その結果スパルタは「もはや援助は不要である」として、アテナイ軍を体よく追い返してしまう。
この一方的な仕打ちによりアテナイは明確にスパルタへの敵対政策へと進める。この一件が、後のペロポネソス戦争へとつづく要因となる。
恐怖政治の強化とヘイロータイの暗殺
大規模な反乱を経験したスパルタは、クリュプテイア(秘密警察的な制度)を導入した。これは国家に害を及ぼすであろうヘイロータイを若者が暗殺する制度。諸説あるが、これは反乱以降に本格的に導入されたと考えられている。このようにスパルタは内部に抱えるヘイロータイの反乱に備え、過激な方法により国の体制を維持していた。
ペロポネソス戦争 - 栄光の裏で進行した衰退

アテナイとの関係悪化は、やがてギリシャ世界全体を巻き込むペロポネソス戦争に発展。スパルタはこの戦争に勝利し、ギリシャの覇権を手にした。しかしこの大戦争から内側から深刻な崩壊が見え始める。
ペロポネソス戦争の勝利は、スパルタに莫大な富と情報をもたらした。ギリシャの覇権を握り他国との接触が増えたことにより、厳格な鎖国政策は崩壊。金銀貨幣が流入し、贅沢な暮らしへの憧れが市民に芽生え始めた。
【法制度の崩壊】貧富の差と市民からの転落
戦争の総司令官であったリュサンドロスは、個人としては誠実な人であった。しかし彼は莫大な金銀をスパルタに持ち込んだ。祖国を富への欲望と贅沢で満たし、スパルタの法とは反する結果を招いた。この状況に拍車をかけたのが、ある法律の制定であった。地位の高かったエピタデウスという人物が「自分の財産を自由に遺贈できる」という法を成立させた。
この法律が悪用され借金の担保として、本来売買が禁止されていたはずの公有地までもが事実上の取引対象となってしまった。金儲けは禁じられ、公務と訓練に明け暮れるスパルタ人にとって、土地は唯一の収入源。その土地を失うことは共同食事への食材提供や、子どもの教育費の支払いが不可能になることを意味した。
その結果、市民から転落した者が続出した。彼らはヒュポメイオネス(劣格者)と呼ばれ、スパルタ社会の中間層であるペリオイコイ(半自由民)の身分に落とされた。
「人口寡少」- 致命的だった市民数の激減
衰退の最大の要因として「人口寡少」すなわちスパルタ市民の極端な少なさがある。スパルタ市民(ヘイロータイやペリオイコイを除く)の数を年度別に見ていくと、その減少ペースは驚くべきものだ。
- 前479年(プラタイアの戦い): 推定市民総数 約8000人
- 前418年(マンティネイアの戦い): 推定市民総数 約3000人
- 前371年(レウクトラの戦い): 推定市民総数 わずか1000人程度
わずか1世紀ほどの間に、最強軍団の中核をなす市民の数が8分の1にまで激減している。
なぜ市民は減ったのか? - 厳格すぎる市民の生活

スパルタ市民であるためには、リュクルゴスの定めた制度や規律のもとで厳しい生活をしなければならなかった。
- 公教育(アゴゲ): 親元を離れ、7歳から始まる過酷な集団訓練を最後までやり遂げること。
- 共同食事(シュシティア): 毎日行われる共同食事に、定められた量の食材を持ち寄ること。
- 質素な生活: 家具や衣服は実用なものに限り、贅沢をしない。
- 鎖国政策: 定期的に外国人を追放し、スパルタ人が外国の文化や思想に触れないようにする。
これらは市民の平等を保ち、堕落を防ぐための仕組みであった。しかし、この厳しいシステムがかえって市民を減少させる原因となる。
これらの義務を果たすには、一定の経済力が不可欠であった。その経済的基盤となっていたのが、ポリス(都市)から各市民に割り当てられた公有地と、そこを耕作するヘイロータイである。市民はこの土地からの収穫物によって生活を維持していた。そして、この公有地の売買は固く禁じられていた。
ホモイオイ(同等者)の消滅 - スパルタ社会の根幹
スパルタ市民は、互いをホモイオイ(同等者)と呼び合った。これは同じ教育、生活様式を共有し、平等な権利を持つ者、という意味である。このホモイオイによる同調圧力が、スパルタの規律と団結を支えていた。
しかし市民から脱落する者や、戦争で活躍したヘイロータイ(奴隷)がペリオイコイ(半自由民)に格上げされるなど、社会構造は大きく変化した。その結果ホモイオイは、社会全体の少数派になってしまった。
市民が少数派になったことにより、スパルタそのものが崩壊していく。覇権を手にしたと同時に、身分の変動がもはや取り返しのつかない自体になっていた。
衰退の原因は女性にあった?

アリストテレスは衰退の原因として、女性も挙げている。彼は「女を自由にさせておくのは国にとって有害である」とし、スパルタの法律が男性にのみ適用され、女性がその外に置かれたことから「女性に支配される社会」とした。
彼によれば、男性は公務や共同食事で家をあける時間が長いため、家庭内では女性がつよく、子どもは母のいいなりに育ったとも述べている。また、規範に縛られない女性たちは贅沢を好み、その物欲から多くの土地を所有するようになった。
またスパルタの土地の5分の2が女性の所有物であったと記している。これは兵士が土地を失い、市民から転落したことの原因につながる。つまりホモイオイ(同等者)が激減した根本的な原因は、女性が土地を独占したことにある、と考えた。
しかしこれらの考えはプルタルコスによって否定されている。彼によれば男性と同じく女性は質素な生活を送っており、贅沢とは無縁であったとしている。この記述はアリストテレスの偏見を示唆していると言えるだろう。
レウクトラの戦い - 覇権国家スパルタの終焉

内部から崩壊しつつあったスパルタに、決定的な一撃を加えたのが、テーバイとの戦いであった。この一戦でスパルタの軍事力は失われ、ギリシャの覇者から転落することになる。
スパルタの敗北
前371年、ボイオティア地方のレウクトラで、スパルタ軍とテーバイ軍が激突した。当時のギリシャ最強と謳われたスパルタの重装歩兵部隊に対し、テーバイはエパメイノンダスという天才的な将軍のもと、革新的な戦術で挑んだ。
結果は、テーバイの圧勝。スパルタ軍は壊滅的な打撃を受け、参戦した市民700名のうち400名が戦死した。アリストテレスは「これ以降その打撃から回復することがなかった」とした。これは単なる敗北ではくスパルタの軍事力が崩壊し、それが世界に露呈した瞬間であった。
敗戦後のスパルタ - 特異な価値観の光景
レウクトラでの敗戦の知らせがスパルタに届いた時、町はちょうど祭りの最中であった。しかし監督官たちは祭りを中断させることなく、淡々と戦死者の名を家族に告げさせた。
翌朝、中央広場には異様な光景が広がっていた。
- 息子の死を告げられた母親: 誇りに満ちた表情で、晴れやかに挨拶を交わしていた。
- 息子が生きていると告げられた母親: まるで喪に服すかのように家に閉じこもり、外に出てきても恥ずかしそうに身を縮めていた。
またこの戦争に限らず、生きて帰ってきた息子を殺害した母親や自殺を強要する母親もいた。これは「戦場で名誉の死を遂げることそ最高の徳」とするスパルタの価値観を象徴するエピソードである。しかしその価値観を支えるべき市民はほぼ残っていなかった。こうしてスパルタから市民の数が大幅に減少し、事実上、最強のスパルタは滅びた。
スパルタはなぜ滅んだのか?歴史が教える教訓

最強を誇った軍事国家スパルタ。その栄光と衰退の物語を振り返ってきた。改めて、スパルタはなぜ滅んだのか、その要因を整理しよう。
- ヘイロータイ問題: 常に反乱の危険があり、それに多大なエネルギーを割いていた。
- 対外関係の悪化: 大地震をきっかけとしたアテナイとの関係悪化からペロポネソス戦争へ。そして戦後の覇権は、ギリシャ世界における反感を持たれた。
- ペロポネソス戦争による痛手: アテナイに勝利したものの市民の激減、貧富の差の拡大など、スパルタの体制は内側から壊れ始めた。
- 女性たちの贅沢: 女性が権力を持ったために、兵士の数が減った。
- テーバイ軍に敗北: すでに体制が崩れ始め、兵士が減っていたスパルタにとって、敗北によりとどめを刺された。最強のスパルタが再び返り咲くことはなかった。
スパルタの滅亡は、外部からの攻撃によるものだけではなかった。内側からゆっくりと、確実に崩れていった。軍事的に最強の国家といえども、時代や環境の変化に対応できなければ、やがて崩壊に至ることを示している。