スパルタ 古代ギリシャ

【スパルタ教育の歴史】最強の兵士はいかにして生まれたか?その壮絶な内容を徹底解説!

最強の戦士を生んだスパルタ教育。

今回はそのスパルタ教育について解説する。

この記事は以下の内容を知りたい人にオススメ!

  • スパルタ教育の語源
  • どんな内容だったのか
  • なぜスパルタは強かったのか
  • 男性と女性の違いは

スパルタ教育とは古代ギリシャのスパルタで行われた最強の兵士を育てる厳しい訓練。

スパルタでは7歳から親元をはなれ、30歳まで肉体と精神を鍛えるきびしい教育が行われた。

この記事では「なぜスパルタは強かったのか」「スパルタ教育の厳しさ」がよく分かる。

現代の「スパルタ教育」の元になった歴史がわかるのでぜひ見ていってほしい。

スパルタ教育の歴史は軍事教育だった!その背景とは?

スパルタ教育が軍事教育として誕生した理由は以下の2つ。

立法者リュクルゴスによる制度化

スパルタ教育の歴史は紀元前8世紀ごろに伝説的な立法者リュクルゴスにより原型が作られ、紀元前6世紀に制度化されたとされる。
リュクルゴスは一人ひとりが国家の部品として機能する、共同体を作り上げようとした。 

最強の兵士を作り、奴隷を支配

教育制度を必要とした理由は大きく二つあり、 1つは最強の兵士が必要だったから。
常に戦争が行われた古代ギリシャにおいて国家の存続には、最強の戦士が必要不可欠だった。

2つ目は奴隷からの反乱を防ぐため。 スパルタは「ヘイロータイ」と呼ばれる多くの奴隷を抱えていた。このヘイロータイの数は市民の数よりも圧倒的に多く、反乱を起こすなどスパルタを脅かす存在になっていた。

少数の市民が多数の奴隷を支配するには、武力で彼らを抑えつける必要があった。

【スパルタ教育の歴史】最強市民を生んだ育成段階

スパルタの教育は個人のためではなく、すべてが国家のためにあった。
その徹底したシステムは、子どもが生まれた瞬間から始まる。

生まれた瞬間から教育は始まり、30歳を迎えるまで続くことになる。

生まれた瞬間から「命の選別」

スパルタでは、生まれたばかりの子どもは親ではなく国家の所有物とみなされた。
子どもはすぐに「レスケー」と呼ばれる集会所へ集められる。 そこでは長老たちによる厳しい身体検査が行われた。

もし子どもが虚弱、あるいは何らかの身体的に問題があるとされた場合、その子は「アポテタイ」という谷間の捨て場に遺棄される
これは本人と国家のためにも、弱い子は生きても意味がないという当時の価値観によるものだった。

「アゴゲ」の3段階

厳しい選別を乗り越えた男子は7歳になると親元を離れ、
市民権を得るための軍事教育「アゴゲ」に入る。
現代で使われる「スパルタ教育」の語源でもある。
アゴゲは年齢に応じて主に3つの段階に分けられ、 段階が上がるにつれその厳しさは増す。

  • パイデス(少年期:7〜12歳) 共同生活が始まり、基本的な規律と集団行動を学ぶ。
    学問よりも「パイドノモス」という教育係や年長者の下で、 ひたすら心身を鍛える毎日を送った
  • パイディスコイ(青年期:12〜20歳) 戦士としての訓練が本格化し、武術や戦術を徹底的にたたき込まれる。
  • ヘボンテス(成人期:20〜30歳) 訓練を終え、正式に重装歩兵として兵役に就く。
    この段階を完了してはじめて、一人前の市民として認められる

脱落者の厳しい末路

もちろんこの過酷なアゴゲに耐えられない者もいた。
脱落した者はスパルタ市民としての完全な権利を失う

彼らは市民より下位の身分である「ペリオイコイ(半自由民)」や、 場合によってはヘイロータイの階層に落とされた。
これは個人と一族にとって最大の不名誉とされた。

【スパルタ教育の歴史】アゴゲの厳しい訓練内容

運動をするスパルタの子どもたち

7歳で家族と引き離された少年たちは、いかなる苦難にも耐えられるよう強い肉体と精神力を身につける。

アゴゲの中でも特に厳しいとされる訓練が以下の4つ。

スパルタの体育

体育は現代と同じように様々な教育なされていた。
その内容は軍事的な要素もあり、訓練は年齢によって変わり生涯にわたってつづく。

  • 児童期: 競走、跳躍、相撲、槍投げ、軍事訓練など、基礎体力を養う運動が中心
  • 青年期: 児童期の訓練に加え、剣術、水泳、狩猟、レスリングや拳闘などの格闘技、そして剣舞が行われた

また子どもたちは頭を丸刈りにされ、サンダルの着用が禁じられていた。
これは髪の手入れに時間かけないようにし、裸足で坂道の上り下りやジャンプをすることで足の裏を鍛える目的があった。

子どもたちは常に競争にさらされ互いに競い合う。
この競争でもっとも優れた者は集団のリーダーとなり、他の者はその指示に従った。

こうして子どもたちの間に縦社会が形成され、将来の指揮官や兵士としての役割が自然と作られる。

「ムチ打ち」

おそらくアルテミス・オルテアとされる像

スパルタ教育の過酷さを象徴するのが「ムチ打ち」と呼ばれる儀式。
女神アルテミス・オルティアの祭壇で行われたムチ打ちは一日中続いたとされる。

この儀式の目的は罰ではなく、将来兵士となる彼らの精神力を鍛え上げること。
誰がもっとも長くムチに耐えられるかを競った。

そして最後まで耐え抜いた者には最高の栄誉が与えられた。
しかし紀元後2世紀に、このムチ打ちによって命を落とす少年もいた、とプルタルコスは証言している。

盗みによる訓練

スパルタの教育では「盗み」が推奨されていた。その理由は盗みが子どもたちを兵士に鍛える目的をもっていたから。

主な目的は以下の3つ。

  • 食料調達
    少年たちの食事はわざと少なくされ常に空腹だった。
    不足分は自分で食料を調達させ盗みにより調達する術を身に着けさせた
  • ずる賢さと戦闘技術の習得
    敵をだまして密かに行動し、
    計画を立てる能力は戦場での必要な訓練とされていた
  • 任務遂行能力の向上
    盗みの失敗は許されなかった。見つかれば「下手な盗み」として厳しいムチ打ちが待っていた。これは盗みそのものではなく、見つかったことへの罰。
    いかなる状況でも確実に任務をやり遂げることの重要性を体に刻み込むためのものだ

少年たちは年長者の命令で、野菜畑や大人たちの食事を盗んだとされている。
リュクルゴスによると「人はたとえわずかな時間ムチ打ちで苦しんでも、長期間にわたり栄誉ある人生を楽しめる」と考えこの厳しい罰を定めた。

ヘイロータイの殺害

アゴゲの最終段階であり卒業試験とされるのが「クリュプテイア」と呼ばれるヘイロータイの殺害。

これはスパルタの支配下にあったヘイロータイを殺害すること。
彼らを監視し反乱を起こそうとする者や、特に優れた者を秘密裏に殺害することにあった。 

アゴゲで鍛えられた若者の中から、特に優秀な者だけが選ばれる。
彼らは短剣1本だけを手に領内へ放たれ、夜間に任務を遂行した。 この過酷な試練を生き延びることこそ、完全なスパルタ市民となるための最終関門だった。

この試験をクリアし、ようやく市民権が得られスパルタの一人前として認められる。

スパルタ教育の歴史 知的教育

スパルタ教育のアゴゲ

学問は「よく支配を受け、よく労苦に耐え、戦って勝つため」に教えられた。
必要最低限の読み書き、算術などは習ったとされる。これらはあくまで実践で役立つことを目的とし、個人の教養のためではなかった。

その中でもとくに重要視されたのが以下の3つ。

ホメロスとティルタイオスによる音楽と詩

具体的にどのような教育が行われたのか、以下の4つ。

  • 音楽の教育
    少年たちは祭典で竪琴や笛を使い、賛美歌や進軍歌などの演奏を行った
  • 詩の教育
    兵士を鼓舞する目的でリュクルゴスが定めた法律や詩人ホメロス、テュルタイオスの詩が吟唱された
  • ホメロスの英雄像
    アキレウスやオデュッセウスの武勇、名誉は、スパルタの若者たちが目指すべき理想の戦士像とされた
  • テュルタイオスの詩
    テュルタイオスの詩は「祖国のために戦い死ぬことこそが最高の栄誉」という価値観をスパルタ市民に植え付けた

また第二次メッセニア戦争の危機において、
テュルタイオスの詩を音楽に乗せスパルタ兵を鼓舞し、団結させ、勝利へと導いた。

このように詩や音楽の教育は、スパルタ兵に死への恐怖を遠ざけ敵に向かう勇気を与えた。

ラコニック問答法

スパルタの教育では簡潔かつ的確に意見を述べる能力を養うため、 独自の問答訓練が重視された。
指導者が子どもたちに問いを投げかけ、短い言葉で理由と証明をそえて答えなければならない。

例えば「どのような男が優れているか」といった曖昧な質問がされ、
もし的外れな答えをすれば、罰として親指を噛まれることもあったという。

無駄口をたたかず必要な言葉を簡潔に述べるスパルタ人は、無口な人が多いといわれた。

スパルタにおける少年愛(Pederasty)

スパルタの指導者たち

スパルタの少年愛は性的ではなく、年長者と少年との教育的な結びつきにあり人格形成を目的とした。
他のポリスでは少年との性的関係はあったが、スパルタでは厳しく禁じられていた。

  • 教育的側面
    立派な人物が少年との関わりを通じて、知的・倫理的に優れた理想的な人物を育てることを目的とした。
  • 厳格な禁止事項
    少年の肉体に対する欲望は「最も恥ずべきこと」とされ、近親相姦と同じ見方をされた
  • 共同責任
    少年が問題を起こすと指導者が罰せられるなど、強い責任関係があった

年長者と少年は父親と子のような関係。スパルタでは一人の少年に対して、
複数の大人の男性が国家全体で少年を育てるという意識が強かった。

【スパルタ教育の歴史】強き女性を育んだ独自のシステムとは?

スパルタ女性のリーダー

少女たちは自宅から学校へ通学し、少年たちと同じような教育を受けていたとされる。
しかし男子が最強の戦士を目指したのに対し、女子は強い子どもを産む母が望まれた。

「強い子を産む」ための肉体作り

スパルタの少女たちは男性さながらの体育を学んだ。
目的は子どもが母体の中で強く育つようにし、出産の苦しみにたえる体力をつけること。

  • レスリング
  • 競走
  • 円盤投げ
  • やり投げ

これらは筋力と持久力を高める訓練であり、彼女たちはこれらの競技を裸で行っていたとされる。
これは「簡素さに慣れさせ、互いに健康を競わせる」 ためだった。
自尊心があれば裸は恥ではなく、むしろ心身の強さを表すとしている。

この教育はスパルタ独自のもので、他のポリスでは女性は家庭内にいて男性を支えることが当たり前だった。

また男性たちの競技を見て、失敗した選手にヤジを飛ばすこともあった。
こうした環境が彼女たちに「男に劣らず徳や名誉心がある」という強い自覚をさせた。

女性の体育は「強い兵士を産む母体」を作るための、合理的システムだった。

ムーシケー(Mousiki)

球技をするスパルタ人女性

スパルタの女性はただ体を鍛えるだけではなく、教養と芸術を身につけた。
その中心にあったのがムーシケーと呼ばれる総合的な芸術。

ムーシケーには以下の要素が含まれる。

  • 楽器演奏
  • ダンス
  • 詩作

特に重要視されたのが、女性だけの合唱団(コロス)であり、
少女たちは宗教的な祭典で神々を讃える歌やダンスを披露した。 
前7世紀の詩人アルクマンが作った『パルテネイア(乙女の歌)』は、 彼女たちが公の場で重要な役割を担っていたことを伝えている。

読み書きについては、エリート層に限られていた可能性が高い。
とくにレオニダスの妻、ゴルゴが幼くして父に助言をした話や、 息子に手紙を書いたという記録もある。
これはアテネの女性と比べれば、スパルタの女性が教育を受ける機会に恵まれていたことがわかる。

ムーシケーはスパルタ市民の一員として自覚をもたせ、人格を高貴なものにした。
強い肉体と精神を持つものこそ、スパルタが理想とした強き女性だった。

まとめ: スパルタ教育の歴史はきつかった

スパルタの兵士

今回はスパルタ教育の歴史について解説した。

今回のポイントをまとめると次のとおり。

  • 戦争や奴隷にそなえ、厳しい教育制度がうまれた
  • 生まれたときから命の選別をうけ、7歳〜30歳まで軍事教育がはじまる
  • 肉体や精神性の教育に力をいれ、盗みや殺しまで行われた
  • 女子にも男子と同じような教育を行い、出産に耐える強い肉体をつけた

このような理由からスパルタは最強の軍事国家を築き、ギリシャの覇権を握った。

スパルタが強いと言われる理由や女性の教育内容が理解できたと思う。

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