
この記事ではストア哲学についてわかりやすく解説する。
ポイント
- ストア哲学が生まれた背景
- ストア派の基本思想
- 感情をコントロールする方法
ヘレニズム期を生きた古代ギリシャ人も、自分の将来や人間関係に悩み、不安を抱えていた。時代が変わっても、悩みのタネは変わらない。
ストア派はそうした情念に理性で向き合い、心の平安を手に入れるための実践的な哲学。
このブログでは古代の賢人から情念との向き合い方を学ぶ。
もくじ
ストア派とは?誕生とヘレニズム期

ストア派はヘレニズム期(ギリシャ×オリエント)に生まれた哲学。変化の激しい時代に生まれ「自分の人生をよく生きるため」の実践哲学として誕生した。そんなストア派の背景知識を解説する。
ポリス中心の「よく生きる」が揺らいだ背景
紀元前3世紀に誕生したストア派は「不安定な世界で、個人はどう生きて幸福を得るか」を考えた。それ以前のギリシャでは、「よく生きる」とはよいポリス(都市)をつくり、それをどう維持するかそのものだった。
アレクサンドロスの遠征とヘレニズム世界

それが紀元前4世紀、アレクサンダー大王の東方遠征によって状況は大きく変化。ギリシャのポリスは次第に力を失う。人々の生活圏は大きくひろがり、インドやペルシャなどオリエントとの交流が活発になった。
となりに住む人の肌の色、言葉、宗教もちがう。かつてのように、同じポリスの市民だけで生活する世界はなくなる。こうしてポリスは崩れ、人々は広い世界に投げ出される。
そして
「ポリスがない時代に、個人はどう生きるべきか」
ストア哲学はこの問いへの答えとして生まれた。
ゼノンの人生とストア派の誕生
ストア派の創設者のゼノンはフェニキア生まれで貿易商を営み、アテナイへ紫貝を輸出していた。その船が難破し、アテナイに漂着したことで彼の人生は変わる。
アテナイの本屋でクセノポンの『ソクラテスの思い出』を読み、感銘をうけたゼノンは本屋の主人に「このような人たちはどこにいるのかね」と訊ねた。すると、折りよく通っていたキュニコス派のクラテスを指して「あの人についていきなさい」と言われる。
これを期にゼノンは哲学の道へ入っていき、ストア派を創設することになる。
のちにゼノンは、キュニコス派・メガラ派・アカデメイア派など複数の学派から学び
「自然に従って生きる」
というスローガンを作り上げた。
ストア派の由来
「ストア派」という名前は、アテナイの広場にあった彩色柱廊(ストア・ポイキレ)に由来する。ゼノンはこの柱廊で弟子たちに教えたため、彼らは「ストア(柱廊)の徒」と呼ばれていた。
ストア派はストイックの語源になっていて、ただ苦行に耐えることを推奨する哲学ではなく、いかなる逆境にも動じない自制心の強さがミソ。ストア派にこそストイックに生きることの本質がみられる。その思想を次の章から解説する。
ストア派の思想:理性・アパテイア・コントロールの二分法

ストア派は、よりよく生きるための実践哲学。その中でも、とくに有名でその中核をなすのが、以下の3つ。
自然に従って生きる=理性に従って生きる
自然に従って生きるとは、理性がものごとの善し悪しを正しく判断し、徳をそなえている状態をいう。そしてこの状態こそストア派は「幸福」と定義した。誤解されやすいが自然とは「森や草木」ではない。
ストア派の「自然」とは単なる自然環境ではなく、理性(ロゴス)を指す。人間もその一部として理性があり、ものごとを善し悪しで判断する。この理性が誤りなく正しく働いている状態をストア派は徳(アレテー)と定義した。
つまり
といえる。
自然に従って生きるとは「つねに理性が正しく働いている状態」で、これをストア派では賢者と呼ぶ。
理性に従い、情念の暴走を防ぐ
じゃあその「理性の間違いや正しさとは」って話。結論からいうと出来事をそのまま受け止め、情念ではなく理性で応じること。
情念(パトス)とは「恐怖、欲望、快楽、苦痛」といった強い感情を指す。この情念が暴走すると、理性を乱し誤った判断をくだしてしまう。
病気で入院したケースを情念と理性に分けて考えてみよう。
このように出来事に対し、情念または理性で応じるかで、心の状態も行動も変わってくる。つまり、とらえ方次第。
アパテイア(不動心):情念からの脱出
そして「情念に左右されず、ただ事実として受け止め、冷静に対処する状態」を、アパテイア(不動心)という。ストア派にとって名声や財産、病気や老いはあくまで外側のものであって、善も悪もない。ただ出来事としてそこにあるだけ。
この善悪の分かれ道は、自分の内側にある。
その出来事に対してどのような態度をとり、行動するかで決まる。そしてこの「態度」と「行動」こそが、自分のコントロールできることだと考えた。
コントロールの二分法 コントロールできるもの、できないもの
外側ではなく自分の内面をみつめ、自分がコントロールできること、できないことを分ける。この考えに注力したのはエピクテトス。
彼は「いかにして精神の自由を得られるか」を哲学に求めた。エピクテトスの有名な一節がある。
物事のうちで、あるものはわれわれの力の及ぶものであり、あるものはわれわれの力の及ばないものである。「判断、衝動、欲望、忌避」など、一言でいえば、われわれの働きによるものはわれわれの力の及ぶものであるが、「肉体、財産、評判、官職」など、 一言でいえば、われわれの働きによらないものは、われわれの力の及ばないものである。
エピクテトス 「要録」p360 (一) 人生談義 國方栄二訳
つまり
など自分の力が及ぶのは思考や選択、行動であって、肉体やお金、他人の反応といった外的なものは、どれだけ悩んでも思い通りにはならない。
だからエピクテトスは
「自分がコントロールできる領域に集中することで、誰からも強制されない自由な生き方ができる」と考えた。
この考えに至ったのも当然だと思う。彼は生まれながらの不自由な奴隷で自由を切望していたから。
欲望にフタをせず、見極めること
また自分がなにか重大なことを望むのなら削ったり、延期することも重要だという。たとえば副業で稼ぎたいのなら、自分の時間をしっかり見極める必要がある。
仕事終わりや休日の「YouTubeを見る時間」や「スマホゲーム」など、「際限のない消費する感覚的な時間」と
「平日は20時〜22時は副業の時間」と決めた「際限のある創造に集中する理性的な時間」を分ける必要がある。
両方はトレードオフの関係でそのまま維持することはできない。誤解されやすいが、エピクテトスは欲望にフタをしろとはいっていない。際限のない消費する時間をとりあえず1日、いや半日だけやめてみる。これも立派に「自分でコントロールしている」と言える。
2000年以上前の人も繊細で同じように悩んでいた

ストア派の門を叩いた人たちは、古代・現代に違いはなく
と思っていたに違いない。ということは古代から人間の悩みは変わらず、不安を抱えていたはず。
ストア派と日本の禅
ストア派の思想は、日本の禅に近い。どちらも「自分の内面をどう整えるか」を重視している。禅が理想とする不動心がまさにアパテイアに近いといえる。
ただ両者の違いは以下の2つ。
どちらも問題は外ではなく内側にある。ただ毎日、自分の内面を観察しながら生きる。これは伊達じゃない。後期ストア派のセネカも「私は賢者ではない」と認めていて、セネカがムリなら俺はもっとムリ。
賢者になるのはムリ、でも目指すことはできる。目指しつづけて、しつこく実践しつづけた人がいつの間にか徳を手にするのではないだろうか。それにストア派の思想をねばり強く実践すれば、少なくとも悩みも最小化される。はず。
まとめ:古代の思想は生きつづける

今回はストア派の入門編として、その生まれた背景と基本的な考え方を見てきた。
最後に、本記事のポイントをあらためて整理する。
初期ストア派〜後期ストア派にかけて解釈や思想の変化がみられる。ここで紹介した内容は基本的な土台となる部分。
その根底には「人生をよりよくするにはどう生きるか」を模索しつづける姿が一貫している。こうしたストア派の思想を押さえたうえでセネカやエピクテトス、マルクス・アウレリウスの著作を読むと違った視点が見える。