
この記事ではテルモピュライの戦いについて解説する。
この記事のポイント
- なぜテルモピュライの戦いが開戦したのか
- 少数で大軍を相手にした理由
- エフィアルテスによる裏切り
- もしもギリシャ軍が耐えていたら
ギリシャ軍は20倍以上の圧倒的な兵力差のあるペルシャ軍に対し、数日間耐え抜いた。その全容を見ていく。
もくじ
テルモピュライの戦いとは?

紀元前480年8月中旬、スパルタのレオニダス1世率いる約7000人のギリシャ軍と、約20万人のペルシャ軍による戦い。テルモピュライは古代ギリシャ語で「熱き門」を意味し、近隣に温泉がある。
南側の山と北側の海に挟まれた断崖であり、通路の幅はわずか約15メートル。この地形は少数のギリシャ軍が多数のペルシャ軍を迎え撃つのに適していた。しかし最後は内通者の手によって激戦の末にスパルタ軍は敗北し、戦死した。
テルモピュライの戦いはギリシャの反乱とペルシャの報復

テルモピュライの戦いはペルシャの支配下にあったギリシャ人の反乱とそれに対する報復により勃発した。
つまりアテナイとエレトリアによる援軍こそがペルシャの怒りを買った。そしてギリシャへ侵攻がはじまり、テルモピュライの戦いにつながったといえる。
少数の兵力で大軍を阻止したテルモピュライの戦いの地形

ギリシャ軍がペルシャの大軍を数日間にわたり足止めできた理由は、左右を崖と海に挟まれた地形にある。また2500年が経過して現在では当時の跡地を見ることは難しい。
地の利を活かした戦い
ギリシャ軍はテルモピュライを戦いの場として選んだ。理由は少数の兵力で大軍を阻止するには最適な場所だったから。ギリシャ側は事前にマケドニア王からの情報でペルシャ軍の進行ルートを把握していた。
ペルシャの大軍が物資を補給しながらギリシャへ向かうには、海軍のいる海沿いを進む必要がある。それに最も適した場所はテルモピュライ以外になかった。
南下してきたペルシャ軍から見れば、左手は川に向って急降下する崖、右手は、山をそぎ落とした崖になっている。その幅は当時15メートルしかなく、やっとの思いで通っている。
そのあいだを少数のギリシャ軍が占拠し、大群のペルシャ軍を迎え撃つという地の利を活かした戦略があった。
現在のテルモピュライ
21世紀、このテルモピュライに立って、2500年前の戦場を想像するのはむずかしい。理由は少なくとも以下の2つある。
ローマ人は古戦場跡をそのまま残すか、交通の便を重視するかを選択をし、迷うことなく後者を選んだ。というわけで、現在のテルモピュライは難路ではなくなっている。
ギリシャ軍の出兵遅延とテルモピュライの戦いの兵力

ペルシャ軍の20万に対し、ギリシャ側が約7000人の少数にとどまったのは、祭典による制限があった。祭典を口実にスパルタからは300人の兵が戦地に向かうことに。
少数しか集まらなかった理由は祭り
20万のペルシャ兵に対し、7千人のギリシャ兵しか集まらなかった。その理由はギリシャの祭典にある。ギリシャでは祭典を重視しており、その際には「聖なる休戦」という、競技者や見物人が安全に参加できるように休戦する習わしがあった。
開催中はすべての戦闘や軍事行動が停止され、どの都市国家も即座に大軍を動かすことができなかった。テルモピュライの戦いと同時期に行われていたのが以下の2つ。
この2つの祭典が行われていたため、全ギリシャは軍を総動員してペルシャに挑むことができなかった。
オリンピア祭を口実に兵を拒んだギリシャ
オリンピア祭が終了した後に全軍を動員してテルモピュライの戦いで防衛戦をする予定だった。しかしそれは明らかに口実であり、多くの都市国家が戦局を見たうえで決めようとしていた現れといえる。
スパルタではどれほど急を要する状況であっても、祭典によって戦争に支障が生じることが過去にいくつもあった。
実際、マラトンの戦いにおいてもスパルタはカルネイア祭を口実に軍を派遣することを拒んでいる。
とりあえずスパルタから300人向かわせる
ここで注目すべきは、スパルタ兵300名が参戦したこと。スパルタの法を破ってでも兵を派遣したのはよほど緊迫した事態だった。
この人数については現代まで多くの議論がある。スパルタ兵に加え、ペリオイコイ(周辺住民)とヘイロータイ(奴隷)も加わり実際は1000名ほど動員されていたとされる。スパルタは祭典終了までの時間稼ぎとして、レオニダス率いる1000名をテルモピュライへ派遣せざるを得ない状況にあった。
テルモピュライの戦いの開戦前夜における両軍の動向

両軍はテルモピュライに布陣した。ペルシャ王クセルクセスは多くの自軍を、ギリシャ兵に見せつけた。これにより戦意を失い、降伏するか撤退して、戦線から離れることを期待した。
ところが、ギリシャ側に動揺する様子はない。それどころか部下の報告によると、スパルタ兵は体育の訓練や頭髪の手入れに専念しているという。スパルタでは命を賭けて戦うとき、頭髪を整える習慣があることも伝えた。しかしクセルクセスは、大群を前に平然としているスパルタ兵の行動を、理解できなかった。
クセルクセスは4日間の猶予をおき、ギリシャ軍の降参を期待したがその動きがないので5日目に攻撃を開始した。こうして戦うことなく、テルモピュライを通過することは裏切られた。
ギリシャの重装歩兵がペルシャ軍を撃退したテルモピュライの戦いの序盤

戦闘がはじまるとギリシャ軍が圧倒した。これは装備の格差と戦術をフルに活かして戦った結果。またギリシャ軍の足止めによってペルシャ軍は食料や水の危機にあった。
クセルクセスの攻撃と初戦の敗北
クセルクセスは4日待機して、5日目に攻撃を開始。初日はギリシャ軍の返り討ちにあった。まずメディア人とキッシア人(共にペルシャの居住者)が攻撃を仕掛けるが、ギリシャ軍の抵抗に負け、大きな損害を受けた。
次いで最強だと思われていた不死隊(アタナトイ)を繰り出した。またしてもギリシャ軍を負かすことができず、この日は負け戦で、退却せざるを得なかった。
ギリシャ軍の重装歩兵とペルシャ軍の軽装歩兵

なぜギリシャ軍の抗戦は成功したのか。その理由として、幅15メートルという地の利と、両軍の装備格差にある。
ギリシャ軍は防御力の高い重装歩兵のファランクスであったのに対し、ペルシャ軍は機動性を重視した軽装歩兵。展開スペースのない道幅ではペルシャ軍の強みが完全に封じられ、ギリシャ軍のファランクスを突破することは難しい。
ギリシャとペルシャの装備と戦術の違いは以下の通り。
| 項目 | ギリシャ軍(重装歩兵) | ペルシャ軍(軽装歩兵) |
| 盾 | 直径約1mの木製丸盾 | 枝などで編んだ軽量で小型の盾 |
| 主要武器 | 2〜3mの長槍、短剣 | 短い槍、弓矢など |
| 防具 | 青銅製の兜、胸当て、脛当て | 布製の衣服、フェルト製の帽子 |
| 基本戦術 | 密集陣形(ファランクス)による正面突破・防御 | 機動力を活かした展開、遠距離からの弓射 |
| 幅15mでの優劣 | 防御と槍のリーチを活かせるため圧倒的有利 | 行動の自由が制限され、強みの機動力を活かせず圧倒的不利 |
ヘロドトスはスパルタの戦術を以下のように伝えている。
「中でも特筆すべき戦法は、敵に背を向けると一見敗走するかのごとく集団となって後退するのである。 ペルシャ軍は敵の逃げるのを見ると喊声を挙げすさまじい音響を立てつつ追い迫る。スパルタ軍は敵の追い付く頃を見計らい、向き直って敵に立ち向かうのである。この後退戦術によってスパルタ軍は無数のペルシャ兵を倒したのであった。」
ヘロドトス 歴史 下p134 松平千秋訳
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【スパルタ最強の戦術】重装歩兵とファランクスを徹底解説
2026/6/9
ギリシャ軍の防御によるペルシャ軍の食料問題
戦闘2日目の総攻撃においても戦況に変化はなかった。ペルシャ軍は少数であるギリシャ軍を軽視していたが、テルモピュライの突破を阻止されてしまう。この足止めは、以下2点の深刻な問題をもたらした。
2日目も攻撃を阻まれたペルシャ軍は、陣地へと引き上げていった。
エフィアルテスが招いたテルモピュライの戦いの転機

ここで登場するのがギリシャ人のエフィアルテス。彼は賞金を目当てに、ギリシャ軍の背後を取る道をクセルクセスに密告し、ギリシャ軍の破滅を招いた。彼の名は悪い意味で後世まで残り、現代ギリシャ語で「エフィアルテス」は「悪夢」を意味するようになった。
彼はスパルタの報復を怖れ逃亡したが、ギリシャ中から賞金をかけられ、最後はトラキス人のアテナデスの手にかかって殺された。
スパルタ全滅によるテルモピュライの戦いの結末

エフィアルテスの裏切りによって後ろを取られたギリシャ軍は、死を覚悟して最終決戦へと準備する。捨て身でペルシャ軍に立ち向かうが、ついに全滅する。
背後を取られたギリシャ軍
クセルクセスは日没にギリシャ軍の背後へ部将ヒュダルネス率いる部隊を派遣した。レオニダスはこのルートの防衛に1000名のフォキス人を配置していた。
フォキス人は枯れ葉を踏む音の大きさから敵の接近を察知した。ヒュだルネスの部隊に弓矢を射かけられ、不意を付かれたフォキス人は進軍を阻止できなかった。こうしてペルシャ軍は夜通し進軍し、ギリシャ軍の背後を取った。
最後の晩餐
夜明け前、レオニダスは投降者によりペルシャ軍が接近している知らせを受けた。各隊の指導者を集めて残る者と撤退するものに分けた。スパルタ軍と共に残ったのは以下の2隊。
プルタルコスは、決戦を控えた朝食の場でレオニダスが発したことばを以下のように残している。
レオニダスは彼の兵士たちに、ハデスで正餐を取るような朝食をするように命じた。
プルタルコス モラリア3 松本 仁助訳
こうしてスパルタ、テスピアイ、テーバイのさらなる少人数でペルシャ軍と最終決戦に挑むこととなった。
レオニダスの死と最後の戦い
クセルクセスは午前10時ごろに攻撃を開始した。レオニダスはこれまで戦っていた狭い場所から、広いスペースに移動した。これまでが守りであったのに対し、今回は攻めの姿勢をとった。
この戦いでペルシャ側にも大きな犠牲が出た。クセルクセスの異母兄弟2人が戦死。ついにレオニダスも倒れた。そのうち他のペルシャ軍が到着し背後から攻撃をはじめた。ギリシャ軍は小高い丘に退き、そこでさらに戦闘を続けた。
スパルタ軍は槍が折れると剣で、武器が壊れると、噛みついたり殴ったり、己の体を武器に、一人でも多く道連れにしようとした。
そのためペルシャ軍は間隔をとり四方から矢の雨を降らせ、ギリシャ軍全員を討ち取った。そして前480年の8月中旬にテルモピュライの戦いは終わった。
スパルタ兵の哲学といえる「勝つか、それとも死か」を貫いた戦いだった。 レオニダスが率いた300人は、混じりっ気なしのスパルタの戦士として死んだ。
テルモピュライの戦いで生き残ったギリシャ兵

スパルタ軍の大半が戦死した一方で、戦場を離れたていた者や、ペルシャ軍に降伏したテーバイ軍がいる。いずれも彼らに待っていたのは悲痛な最後だった。
生き残ったスパルタ兵2人の末路
テルモピュライの戦いから生還したアリストデモスとパンティテスの2人がいた。スパルタに帰還すると恥さらしのレッテルを貼られ、それぞれ異なる結末を迎えた。
スパルタでは、戦争で負けて帰ることは最も恥ずべきこと。スパルタの母親は生還した息子に対し、「お前について悪い噂が広まっている。いますぐこの噂を取り除くか、生命を絶ちなさい」という手紙を残すほど、負けて帰ることは恥ずべきことだった。
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裏切ったテーバイ軍
スパルタとテスピアイ兵が死を覚悟して戦う中、テーバイ軍は戦場から離れペルシャ軍に降伏した。テーバイ軍は戦況がペルシャに有利と見ると両手を差し出し「元々ペルシャと共にするはずだったが、無理やり戦わされていた」と命乞いをした。
テーバイ軍は命は助けられたが焼印を押され、奴隷や従属軍として扱われた。
裏切りのないテルモピュライ

もしエフィアルテスが存在せず、クセルクセスが迂回ルートの存在を知らなかったらどうなったか。あと数日、ギリシャ軍が耐えていたならペルシャ軍は自滅した可能性がある。理由は以下の2つ。
もし防衛が長持ちしていたらペルシャ軍を自滅へ追い込めた。またオリンピア祭が終わり、全ギリシャから援軍が送られ、作戦は成功したかもしれない。
テルモピュライの戦い:まとめ
この記事ではテルモピュライの戦いについて解説した。まとめは以下の通り。
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参考文献
- スパルタ 古代ギリシアの神話と実像 長谷川岳男
- 地中海世界史 ポンペイウス・トログス・ユニアヌス・ユスティヌス 合坂學訳
- ギリシア人の物語Ⅰ 塩野七生
- 英雄伝1 プルタルコス 柳沼重剛訳
- モラリア3 プルタルコス 松本 仁助訳
- 歴史 上・中・下 ヘロドトス 松平千秋訳
- 古代ギリシアの歴史 桜井万里子
- 世界の歴史 (5)ギリシアとローマ 桜井万里子
- 地中海世界の歴史 3 本村凌二