哲学

ストア派ゼノンの生涯

この記事ではストア派のゼノンについて解説する

ゼノン

この記事のポイント

  • ゼノンがストア・ポイキレで講義をした理由
  • ストア派以前のゼノン
  • ゼノンの生涯

ゼノンが創設した「ストア派」は、激動のヘレニズム期、人々がどう活きるか迷っていた時代に生まれた実践哲学。

彼はアテナイの路上で、誰もが立ち寄れる「ストア・ポイキレ(彩色の回廊)」を選び、教義を始めた。そこには、現代の私たちが抱える不安や逆境を、力強く突き破るためのヒントが隠されている。全財産を失った商人が、いかにして王や市民から愛される哲学者へと変わったのか。その生涯を解説する。

逆境を「希望」へ変えたストア派のゼノン|商人から哲学の道へ

ストア派の創始者ゼノンは、不運といえる船の事故を、最大の好機である哲学への道と変えた。船を失い人生に絶望するのではなく、むしろ執着やお金から身軽になった。

時代背景

時代はアレクサンドロス大王の死後10年が経過したヘレニズム期。ポリス(都市)という共同体が崩壊し、人々が生き方に迷っていた時代。
哲学の役割が「良き市民や統治者の育成」から、広大な世界の中で「個人がいかに平穏に生きるか」へと大きく変わり、哲学の形式も変化していた。

ストア派ゼノンの原点―父からもらったソクラテスの思想

ゼノンはフェニキアのキティオン出身。ゼノンの父ムナセアスは、商売のためにアテナイを頻繁に訪れていた。そしてアテナイからの帰路、ソクラテスに関する書物を持ち帰り、少年のゼノンに与えていた。

ゼノンは子どものころから哲学の訓練を積んでいたとされる。またヘレニズム期という大きな変化の時代もあって、ゼノンは新たな学園の構築という野心を抱き始めたのかもしれない。

船の難破とクラテスとの出会い

ゼノンの人生を変えたのは22歳のとき。紫貝の染料を運んでいる途中、アテナイで船が難破した。全財産が海に沈んでしまい、一瞬で無一文。おそらく絶望したと思う。

それから彼はなんとかアテナイをさまよい歩き本屋に行き着く。そこでクセノポンの著作『ソクラテスの思い出』を読み、感銘を受けた。彼は店主に「このような人物にはどこで会えるのか」と問い、そこをたまたま通りかかったキュニコス派のクラテスを紹介された。

こうして彼はクラテスの弟子となり哲学の道へと進み、ストア派を創設する。皮肉なことにこの難破がなければ、ゼノンは後世に語り継がれることもなく、「商人」として一生を終えていたかもしれない。後期ストア派のセネカがゼノンの言葉を引用している。

「運命が私に命じているのだ。もっと身軽になって哲学せよと」
(セネカ 『人生の短さについて 他2篇』より引用)

セネカが引用したこの言葉通り、大金や物を失ったからこそ、彼を哲学へと向かわせる第一歩となった。

ストア派のゼノンが学んだ小ソクラテス派の思想

ストア派の教えには、世間の評判や他人の目といった世間に惑わされない自制心がある。自分の中に恥じらいがあると、自然に従うのはむずかしい。

キュニコス派の影響 倫理学

ストア派の発展へ最初に影響を与えたのは、おそらくキュニコス派(犬儒派)であるテーバイのクラテス。キュニコス派は禁欲を説き、「自然に従って生きる」をスローガンにしている。

身体的・精神的に鍛錬すること以外はなにも必要とせず、名誉や贅沢を徹底して排除するという極端な思想を持つ。その身なりは乞食のような格好で、社会の常識を恥とはせず、所有物はほとんど持たない。今で言うミニマリストに近い。その姿はまさに犬のような生活と呼ばれた。

若き日のゼノンはクラテスの弟子となり哲学に励む。しかし若かったゼノンは恥ずかしがり屋であり、キュニコス派の無骨な生き方に抵抗を示していた。それを直してやろうと考えたクラテスは、さまざまな試練を通じてキュニコス派の思想を叩き込んだ。そしてゼノンは、禁欲的な生活を学びストア派の基礎を作り上げる。

初期ストア派―ゼノンの過激な思想が書かれた『国家』

ゼノンがまだクラテスの元にいたころに書いた著書『国家』。これはプラトンの同名著書に対抗する意図を持っていたとされる。残念ながらゼノンの書物はすべて散逸していて、後世の断片のみで我慢するしかない。ディオゲネス・ラエルティオスのゼノンについて解説した内容を紹介。

国家の一部

  • ゼノンは一般教養を「無用」と切り捨てている。
  • 善い人のみが同胞であり、市民であり、友人で身内で自由人である
  • 逆に善い人でない者は、親や兄弟、友人でも敵であり、奴隷という極端な主張
  • 妻は共有のものである
  • 貨幣に関しても作る必要はないと説いた
  • 男も女も同じ服を着て、体のどの部分もすっかり覆い隠すことを否定

これらも自然に従って生きることを第一とし、他のものを一切必要としない極端さがキュニコス派の影響を受けているとみえる。

メガラ派からの影響 論理学

ゼノンはキュニコス派のクラテス以外にも、メガラ派のスティルポンディオドロスにも師事した。彼らから論理学と問答法を熱心に学んだ。

ある時、キュニコス派のクラテスがゼノンを取り戻そうと上着を掴んだ。その時ゼノンはこう言い放った。

「哲学者を捕まえる利口なやり方は、耳を通じて掴むことです。私を説得して耳を通して連れて行ってください。そうではなく私に無理強いをさせるなら、私の体はあなたの元にあっても、心はスティルポンのところにあります」

またゼノンは宇宙を「一なるもの」として捉えたが、これもメガラ派の思想に遡るもの。
そして彼はコスモポリタニズム(世界市民)という思想を確立する。

アカデメイア派からの影響 自然学

さらにゼノンは、プラトンを開祖とするアカデメイア派のクセノクラテスやポレモンの元でも学んだ。

ゼノンは最善の生き方を模索するために神託を求めた際、「死者と交わるならば」という答えを得た。人によっては墓場に行くと解釈する言葉だが、「昔の死んだ人々の書物を読むこと」と解釈し、読書に没頭する。

そしてゼノンはピュタゴラスやヘラクレイトスの書物を読み影響を受けた。「ピュタゴラス派の教義について」の執筆や、火を宇宙の運動原理と考え、宇宙炎上によって世界が生まれ変わるという思想(後にニーチェの永劫回帰に影響を与えた)を取り入れた。

最終的にゼノンは、スティルポンによって「戦士」となり、ヘラクレイトスによって「厳格さ」を備え、クラテスによって「犬」のようになった、と評された。いずれも小ソクラテス学派と呼ばれる学派の思想を受けていて、間接的にソクラテスの影響を受けている。

そしてストア派を「論理学」「自然学」「倫理学」と3つの学問へと体系立てた。

初期ストア派のはじまり 節制を説く優れた教師

ストア派の始まりゼノンがストア・ポイキレで講義をした理由

そして講義の場所として彼が選んだのは、アテナイの「ストア・ポイキレ(彩色の回廊)」。ここはかつて1,400人もの人間が死刑判決を言い渡された曰く付きの場所。ゼノンがここを選んだ理由は明確で、大勢の人間が嫌いで、人の寄り付かない静かな場所にしたかったため。彼は散歩をするときでさえも3人以上で連れ立って歩くことはなかった。

またゼノンは移民であり、自分の土地を持つことが法律上できなかった背景もある。しかし彼の思惑とは裏腹に、多くの人々が教えを聞こうと集まり、彼らは「ストアの徒」や「ゼノンの徒」と呼ばれ、後に「ストア派」と呼ばれるようになった。

ゼノンが定義する「徳」と「無関心」財産や健康に支配されない魂

ゼノンはカテーコン(ふさわしい行為)という言葉を最初に哲学の中へ導入したとされている。そしてキュニコス派と同様に、本当に善といえるものは「徳」のみであると定義。「知恵、勇気、正義、節制」の4つを徳とし、反対に悪と言えるのは「悪徳(愚鈍、不義、臆病、放埒)」とした。

それ以外のもの、すなわち財産、名誉、健康、さらには生命でさえ、善でも悪でもない「無関心なこと」と明確に切り捨てた。

ストア派の教えを体現する少年 動揺しない忍耐と精神

ある時、1人の少年がゼノンの元で学んでいた。父親に何を学んだのかと聞かれると、少年は「見せましょう」と答えたが、長い間それを実行しなかった。見かねた父親が怒って子供を殴ると、少年は平静を保ったままこういった。

「学んだのは、このことです」

少年がゼノンから深く学び取っていたのは、理不尽な暴力や怒りに耐え、精神を動揺させないという自制心そのものだった。

ストア派ゼノンの評判 

ストア派の教えはゼノン自身の極めて質素で厳格な「生き方」そのものに体現されていた。

飾り気のない素朴、沈黙と自制を徹底した日常が、その思想に圧倒的な説得力を与えていた。

「ぶどうツル」と呼ばれた男

ゼノンの外見は痩せていて身長が高く、肌の色は浅黒かった。そのひょろりとした外見から、人々は彼のことを「ぶどうツル」と呼んだ。さらに足は太く肉はたるんでいて、総じて虚弱な体質。日光浴を好んで過ごした。

質素な生活

ホメロスには1人、プラトンには3人の奴隷がいたが、ゼノンには1人の奴隷もいなかった。金持ちであったにも関わらず生活は質素。食べ物は火を使わない生の食物を取り、食事の基本はパンと蜂蜜、イチジクを好み、それに少量の葡萄酒のみ。常に薄い上着をまとって生活し、忍耐強さと節制を徹底した。ことわざに「哲学者ゼノンよりも、もっと自制心がある」といわれるほど。

無口で厳格な性格

知人たちにも厳格な態度を崩さなかったゼノンだが、葡萄酒を飲むと穏やかで優しくなった。これはルピナス(はうちわまめ)の豆に例えられた。ルピナスの種も水に浸けられる前は苦いが、水を注がれると甘く美味しくなるから。

ゼノンは言葉数の少ない人間だった。また、誰かを叱る時には公衆の面前で叱るのではなく、陰でこっそりと、あるいは遠回しに叱るという細やかな配慮を持っていた。

意味のないおしゃべりをする若者に向かって、彼はこう言った。

「我々が耳を2つ持っているのに口は1つしか持たないのは、より多くのことを聞いて、話す方はより少なくするためだ」

アテナイ市民からの評判

ゼノンはフェニキアの出身であり、アテナイにおいてはメトイコス(居留外国人)の身分。当時のギリシャ社会において外国人は市民になれず、待遇も悪かった。しかし、アテナイ市民はゼノンを尊敬し、城壁のカギを彼に預け、黄金の冠を授けた。さらには青銅の像まで建てて彼を讃えた。

またゼノンに対する感謝の決議文が作られた。その内容は「彼のもとに教えを乞うべくやってきた者たちを徳と節制に近づけ、よく生きるように促した」というものだった。

マケドニア王が認めたゼノンの高潔さ

ゼノンが亡くなったときには、マケドニアのアンティゴノス王は「何という素晴らしい観客を世は失ったことか」と深く嘆き悲しんだ。なぜそこまで尊敬するのかと問われた王は、「彼から数々の贈り物を受け取ったけれども、決して傲慢にならなかったし、卑屈にもならなかったからだ」と語ったという。

ストア派ゼノンのウソのような最期

ゼノンは72歳、あるいは98歳まで生きたという説がある。その最期は、学園から出て行こうとしたゼノンはつまずいて倒れ、足の指を折ってしまう。老いた彼はその瞬間に大地を力強く叩き、こう言い放った。

「いま行くところだ。どうしてそう私を呼び立てるのか」

そして、自ら息を止めて世を去ったという。誇張された可能性はおおいにあるが、自己の肉体と運命を完全に支配し尽くしたゼノンであれば、いかにもやりそうな最期。

またゼノンが亡くなったとき、アテナイにおいて移民であったにもかかわらず、国費で墓が作られるという異例の待遇をうけた。

まとめ―ストア派ゼノンが現代の我々に遺した「逆境への向き合い方」

絶望した商人は、今もなお、語り継がれる哲学者へと大きく変わった。
そして様々な師から学び、ストア派を創設、多くの人間に徳や節制を説き影響を与えた。
また彼は移民であったにもかかわらず、アテナイ市民やマケドニア王からの信頼も厚く家族同然のような関係を築き上げた。

ゼノンの逆境や外的な要因に怯まず、徳と節制を貫いた姿は何千年たった今でも学びを与え続けている。

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